VOICE

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海外活動の赴任直後、私は現地に放り出されたような感覚の中にいました。
言葉が出てこない。自分らしく振る舞えない。何ができるのかも分からない。

あのときの自分に、いまならこう言えます。
「自分に自信を持って」と。

カンボジアでの1年は、不安から始まりました。
そして気づけば、看護の意味も、自分の立ち位置も、大きく変わっていました。

——ここからは、蛭川看護師自身の言葉で、国際医療メディカルチームの活動を振り返っていただきます。
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「今しかない」と思えた理由

■ 参加前の率直な気持ちを教えてください。

 蛭川看護師  学生の頃から国際医療に関心がありました。いつか挑戦してみたい。
その思いは、27歳の時までずっと心にあり続けていました。
自分の年齢やタイミングを考えたとき、「今を逃したら行けないかもしれない」と思い立ち、一歩を踏み出しました。

ただ、希望だけで飛び込んだわけではありません。
いざカンボジアに赴任してみると、日本人のボランティアはほとんどおらず、前任者とも数日しか重なりません。気づけば、現地スタッフの輪の中に一人で立っています。
その瞬間、不安が一気に押し寄せてきました。

■ 特に不安だったことを具体的に教えてください。

 蛭川看護師  一番大きかったのは、英語への不安です。
同期は流暢に話しているのに、自分は思うように話すことができない。
本来は話すことが好きな性格です。けれど、英語となると意見があってもうまく話すことができない。発信することに対して自信がなく、自分はどう思われているのだろうかと周りの目を気にして一歩を踏み出せない。

最初の1〜2か月は、まさに自信を失っている状態でした。
「私はここで何ができるのだろう」と、何度も自分に問い続けていましたし、同期が楽しくクマエスタッフと話している姿に羨ましさも感じた瞬間が何度もありました。
無力感の先にあった確信——カンボジアで育まれた、看護の喜び

■ その不安は、実際どうなりましたか?

 蛭川看護師  ずっと同じ場所にとどまっていたわけではありません。
転機は、半年を過ぎた頃に訪れます。
ジャパンハートでは、地方での出張手術に伴い、看護師が一人で地方病院に住み込み、術後ケアを担う「一人っ子活動」と呼ばれる機会があります。私はその役割を任されました。

周囲に日本人はいません。判断も責任も、自分一人に委ねられます。患者や家族はもちろんのことジャパンハートの病院と違ってスタッフすらも英語が通じない。思うようにコミュニケーションが取れず苦戦しました。もともと私は、計画を立ててから動くタイプです。しかし現場では計画通りにいかないことのほうがむしろ多いです。たとえハプニングが起きてもおおらかに対応するクマエスタッフの様子を見て、
「案外、やっていけるのかもしれない」
計画通りでなくてもいいんだと心が軽くなりました。
また、違う環境に身を置くことによって、はじめてジャパンハートのスタッフを客観的に捉え今までの活動を振り返ることで、気づいたことがありました。それは、クマエスタッフの成長への貪欲さと、どんなことでも受け入れてくれるだろうという私自身のクマエスタッフに対する信頼でした。このことに気づき、一人っ子活動を終えて自分の病院に帰った後は、なにか新しい取り組みを始めたり、提案したとしても絶対にクマエスタッフと協働できる・成長できる、という確信があり、一歩踏み出すことへの恐怖心はなくなりました。それからは自分自身にブレーキをかけることなく積極的に行動できるようになりました。

いま、活動を始めた頃の自分に声をかけるなら——自信を持て、と伝えたいです。
1年は驚くほど早く過ぎていきます。 そして私は、その時間の中で確実に変わっていきました。
無力感の先にあった確信——カンボジアで育まれた、看護の喜び

関わりが人を変え、人の成長が自分を変えた1年

■ 印象に残っている出来事を一つ教えてください。

 蛭川看護師  糖尿病で傷の治りが悪い患者さんとの関わりです。
その方は血糖コントロールがうまくいかず、傷もなかなか閉じませんでした。スタッフ全体が課題だと感じてはいましたが、忙しさの中で個別的な支援までは手が回っていない状況でした。
私は毎日病室に顔を出し、血糖値を一緒に確認しました。体重を測り、「散歩に行こう!」と声をかける。小さな変化を一つずつ共有していきました。

最初は半信半疑だった患者さんも、次第に自分から歩くようになり、食事にも気を配るようになります。血糖値が少しずつ安定し、傷がゆっくりと閉じていく、患者の行動や意識が自然と変わっていく。その経過を間近で見ていました。
医師から「あなたが治したようなものですね」と声をかけられたとき、関わりが人の行動を変え、その変化が身体の回復につながることを、はっきりと実感しました。

けれど、同じ現場で救えなかった命もあります。
医療資源が限られる中で、できることには限界がありました。溺水し時間がかなり経ってから来院し蘇生できなかった小児患者。乳がん末期ですでに離開しており手術適応はなく、創部ケアのみしかできず肩を落として帰っていった患者と家族の後ろ姿。金銭面の問題でこれ以上治療ができず帰宅を選んだ患者⋯もっと早く来られていたら——そう考えずにはいられません。無力感が、静かに残りました。
はじめのうちは「カンボジアだから仕方がない」と勝手に諦めている自分がいました。
しかし全ての出来事に対して「仕方がない」で終わらせたくなくて、現地スタッフと自分たちができることを話し合い、未来につなげるための対話を行いました。
所属していたEmergency teamでは心停止時の患者対応をスタッフ全員ができるようになるようACLSコース開催を、早期発見という概念を人々へ浸透させ、乳がんの早期発見・治療に繋げるための一歩として乳がん検診事業の立ち上げなどを行いました。自身が抱いた無力感や悔しい想いが原動力となり、私を突き動かしていきました。
無力感の先にあった確信——カンボジアで育まれた、看護の喜び

■ 活動を通して、自分の中で変わったことを教えてください。

 蛭川看護師  活動当初、私は自身の関わりを通して「患者の笑顔を見ること」にやりがいを感じていました。目に見える回復や笑顔は、自分の力を証明してくれるように思えたからです。
しかし、新人の教育や後輩との協働を通して、視点が変わっていきました。自分が直接患者にケアをするだけでなく、スタッフが挑戦し、成長していく姿を見守ること。他人の成長や喜びが、自分の喜びにもなっているということに気がつき、自分の新たなやりがいが見つかっていきました。

以前は「自分がやる」ことに価値を置いていました。いまは「皆でやる」ことに意味を感じています。
言語も価値観も文化も異なるスタッフと協働していくことは簡単なことではありません。うまくいかないことも多いです。しかし、同じ目標に向かって共に困難を乗り越えていくことは、より一層やりがいや達成感を得ることができたと振り返ります。
無力感の先にあった確信——カンボジアで育まれた、看護の喜び

海外だからこそ見えたもの

■ あなたにとって、“海外で活動する”ことはどのような意味がありましたか?

 蛭川看護師  私にとっては、自分の当たり前を手放す時間でした。
カンボジアでは、医療の限界や背景の違いに何度も戸惑いました。けれど患者さんの話を聞くうちに、「なぜそうなってしまったのか」には必ず理由があると知りました。
日本で正しいと思っていたことも、ひとつの見方にすぎないのかもしれない。そう気づいたとき、自分の価値観が少し柔らかくなりました。

また、困難な歴史の中でも前を向く人々の姿に、何度も心を動かされました。その強さに触れる中で、看護とは何か、医療者としてどう在りたいのかを自然と考えるようになりました。そしてカンボジアのために、人々のためになりたいと、当事者意識が生まれていきました。
海外での1年は、誰かを変える時間というより、私自身が静かに変わっていく時間だったと感じています。
無力感の先にあった確信——カンボジアで育まれた、看護の喜び

■ 参加を迷っている医療者へメッセージをお願いします。

 蛭川看護師  「何かをしてあげたい」という気持ちは、とても大切だと思います。ただ、それだけで飛び込むと、現地との間に小さなすれ違いが生まれることもあります。
まずは相手を知ろうとすること。受け止め、共に考える姿勢を持つこと。その積み重ねの中で、自分の専門性が自然と活きる瞬間が訪れるのではないかと思います。

私も、不安の中で一歩を踏み出しました。何ができるかは分からなくても、「なぜ心が動いたのか」を大切にしたことが、出発点だったように思います。
迷いがあるのは、真剣に考えている証拠です。もし心が少しでも動いているのなら、その感覚をそっと見つめてみてください。
その先で、自分でも知らなかった喜びに出会うことがあるかもしれません。
無力感の先にあった確信——カンボジアで育まれた、看護の喜び

【プロフィール】
蛭川看護師|看護師5年目(当時27歳)
救命救急センター勤務
EICU(2年)→EHCU/救急外来 兼務(3年)
・病棟リーダー、記録係リーダーを担当
・プリセプターとして後輩教育に従事
・ドクターカー搭乗経験あり